2012年04月

人を雇うという事が
こんなに難しいとは思わなかった。




放送作家としての活躍ぶりを知っている訳であっても
岩崎夏海をいくらで雇ったらいいのか
そして、何をやってもらったらいいのか想像がつかない。


サラリーマンしかやってこなかった自分が
意外と不甲斐ない・・・・・


もちろんフジテレビの管理職として
新人の面接や中途採用
あるいは入社後の管理や教育は
人一倍やってきたつもりである。


しかし、自分のリスクで仕事を拵え
他人を雇うことがこんなにも不安で決断できないとは





当分は
一人でぶらぶらやって行ってもいいな
などと、呑気に構えていた僕は
岩崎君に
もう少し形になってからでいいんじゃないのかな、と
小さな声でつぶやいた。


だいたい
自分のお金から給料を払ったこともないし
どのくらいがいい感じなのか
ちっともわからないのだから・・・・






しかも、この男
信用できるのかどうかも
見当がつかない。


もちろん才能はある。
しかし
自分の部下になったこともないし
そもそも
随分久しぶりなのだ。


でも
そういえば
少し前に電話して様子を聞いたのは僕だった。


その時は
こんな展開になるとも思わず
なんか、あったら、という極めて業界的な
挨拶のつもりであったのだから。



吉田正樹事務所と名乗ったはいいが

特に仕事はない。



手持無沙汰な毎日である。





フジテレビを辞める少し前

一人の放送作家がボクを訪ねてきていた。





殿様のフェロモン時代から、そして

それ以降も企画書の作り方が上手で

いろいろ気にかけていた

岩崎夏海くんである。





秋元康さんの弟子で

放送作家でもあり

番組のプロデュースなども手伝っていたはずである。





現在では

もしドラの作家として

日本中が知るところとなったわけだが

当時は何をしているのかよくわからない

存在であった。







話を聞いてみると

既に秋元さんのところは離れており

一年前くらいから神田のゲーム会社と仕事をしているようだ。



うまくいってることも

いまいちなこともあるのだろうな、と感じながら

人生の不思議な味わいを感じていると

不意に彼は

吉田正樹事務所に入りたいと言い出した・・・・・





一人で何をやっていいかわからない訳で

まして誰かを雇って給料を支払う勇気もない。





思わず

絶句するボクなのであった・・・・





2009年の1月1日にフジテレビを退職した。
2008年の早いうちにと思っていたのだが
お台場合衆国の副団長を頼まれたり
最期にお正月の生放送を
社員として担当したりという流れで2009年になってしまっていた。


その日は
爆笑ヒットパレードの生で
打ち上げ会場で
港浩一さんより
辞令をいただいた。

本来なら
いろいろ
社内にあいさつに回るのかもしれないが
あくまで現場に
拘った最後になった。

活動の拠点として
自分の事務所を持つということは
漠然と決めてはいたものの
当たり前だが経験もなく
ぼんやりと思うだけだったので

さしあたって自宅を所在地として法人を設立し
連絡先はフジテレビ時代に使用していた携帯電話ということで
スタートすることにしたのである。


まったく自覚のない
旅立ちになってしまった。




普通は
有給休暇をどかんととったり
半分、出社しないでいろいろ準備するらしいが
最期の日まで現場スタッフとして
番組を制作してしまった。









吉田正樹事務所という名前にしたのは
それ以上説明しやすい名前がなかったからだ。


辞めてなにをするのかという説明が一番厄介で
いや、やれることすべてというしかない

吉田正樹という自分の
親からもらった名前と
それに付随する一切をやる会社という意味で
ふさわしい名前になった。


設立は
予定していたが
社員在籍中に登記するわけにもいかず
結局元日設立とはならず
その記念日は
7日という中途半端なものとなった。



そんなバタバタした最後だったので
デスク周りの整理も
年内には終わらず
4日になって
フジテレビに行き整理する羽目になってしまった。


通いなれた13階のデスクに行ってみると
花が届いていた
少々古くなっていたので
元日の夜に届いたらしい。


誰からだろうと
名前を見ると
SMAPだ。


まさしく
元日届くように
手配していただいたらしく
その花はすこし弱ってはいたが
美しく感動的で
僕はしばらく自分の席だったところに座って
その花を眺めていた・・・・


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