深夜に連続tweetしたので忘れないように貼っておくことにした。

人生には限りがあるが、こんなにも個体差がありしかもそれが不意に訪れるというのは悲しい。だからと言って長ければ悲しくないというわけでもないが。
乗り越えて生きていくしかないと思う。

ネット上の炎上は一般社会ではほとんど影響がない。しかし、取材をサボるジャーナリズムの一部が炎上を作り出して面白おかしく広げてゆく。乗ってはいけない。
大事な時間を誰だかわからぬものと空費するのは無駄なのだ。
斯くいう自分も2ちゃんねる全盛期に全力で闇に向かって戦ったつもりで沈没。

反論に次ぐ反論、スリリングな気もするが何にも残らぬ。
ゆっくり落ち着いて、論考し直すもよし。
また散歩に出るのもいい。

我々の仕事は論争ではなくて、何かを作り出すことなのだから。

気に入らぬ相手をブロックするのもやめたほうがいい。
相互に読めて絡めるからいいのであって、新聞記者のように一方的になってはいけない。
何しろ言論をタダで提供しちゃっているのだから、安いもんになってしまっているのは自分自身だ。
相手じゃない。

論争、というより罵り合戦をしている二人のタイムラインをそーっと読んでいくと実はよく似た二人であることが多い。
脳内に快楽信号でも出ているのだろうか。
似た者同士が時間潰しでじゃれあっている訳だが
本人たちは一生の大勝負みたいにカッカして夜も寝れないことになる。

考えてみると僕自身数年前、いや10年近く前、Twitterの初期にそんなことにもなった。フォースの暗黒面とはこのことだ。
自分の姿を鏡に映して、ダースベーダー担っていたら即刻スマホの電源を落としたほうがいい。もっと目が悪いのでこれはパソコンで売っているが(爆笑)

あ、この連続tweetは、深夜の現象で、明日反省して消しているかもしれずなのです。
そもそも人間の恥部を晒しているようなもんで、ぎゃっと行って布団に潜りたくなるのが普通の神経なんだ。

星野淳一郎さんの葬儀で弔辞読みました。
どんな友達も僕より相応しい人がいるからと
お断りすることが多いのだけれど
この度は、引き受けました。
難しかった。
でも言えてよかった。

組織に属さなかった星野さんの仕事を少しでも
彼の作品を観て育った遠くの皆さんに知ってもらいたい。
そんな思いから奥様に了解を得てTwitterでつぶやき、facebookでお知らせしました。

そんな中に作家の皆さんが僕の弔辞も紹介してくださり全文を読みたいという希望が寄せられました。

改めて星野淳一郎さんのご冥福を祈って
ここに掲載します。







星野淳一郎さん、

僕達のあいだで、弔辞なんて柄でもないけど、
最後のお別れだから、少しだけ送る言葉を述べようと思います。


長い長いつきあいになりましたね。
とても一言では表現できない関係でした。
僕にとっては先生であり、仲間であり、ライバルでもあり、そして真の友達でした。

 

1980年代に初めて会った時、横澤さんから「ここのことは全部ホシノに聞いて」と言われました。
笑っちゃうようですけれど、あなたはその言葉通りの人物でした。

まさに横澤班の要。

15才でテレビを志し、17才でこの世界に飛び込んだあなたはすでに大ベテランでしたから、教えてもらうことばかりでした。
とにかくいろんな意味で大きな人でした。

毎日の笑っていいいとも!スタジオアルタの下手に仁王立ちして、どんなことがあってもこの場は俺が支えるというまさに無双の存在でした。


几帳面で豪胆、最悪の事態を悲観論で準備して、本番は何があっても「しゃーねーや」と最高の楽観論で楽しんでゆく。

タモリさんとの信頼、そして当時の最高の出演者のなかでうまれた、フジテレビらしい幸せな空気でした。


そしてその結晶ともいえるのが、第一回目の24時間テレビでした。あなたは制作のすべてを実務として統括するスーパープロデューサーとして、30年にも及ぶその基礎をこしらえました。

「どうせ誰かがやらなくちゃいけないなら、オレたちがやらないで誰がやる」よく言ってました。





西郷隆盛は私利私欲で動く人が多いなか、「私」という部分を2%だけ圧縮してそこに出来た真空のような「無私」で多くの人を引きつけていったと言います。

あなたの「無私」は2%どころではありませんでした。

100%そうでした。

思い出される光景は、根元まで吸ったたばこ、それが山盛になってゆく灰皿。

自らに課した使命感はとことんテレビが好きで、純粋に「やり抜く」、それがあなたの生き方でした。


僕達が2人でつくった最初の番組が「夢で逢えたら」でした。

これもまた己の欲望の為でなく、
先輩から受け継いだものをどうやって未来に渡せるか、
まさに「俺達がやらないで、誰がやる」というものでした。



あの頃は本当に楽しかった。


今日の入り口で流れている曲は、みんなあなたが作詞したものです。覚えていますか?


その後、誰かがやらねばや、ごっつええ感じの時代を経て、あなたは日本テレビで仕事をします。

少し距離ができました。




再び会うことができたのは、古い友人であるエディターの石附君の新潟での結婚式でした。


上越新幹線のホームの端に立つあなたの姿はまるで風に向かうラ
イオンの様でした。

そして、どうしてもと
お願いして「笑う犬の生活」に参加してもらいました。
 
それから一緒の生活です。
「力の限りゴーゴゴー」などすべての番組を共にしました。


今は分かってもらえなくても、いつか自分達の方向がきっと伝わる筈だ、そう思って一緒に進んできました。


その頃、ニューヨークで過ごしたある晩、言ってくれたひとことがあります。

「お前はどう思っているかわからないが、俺は君のこと友達だと思ってるよ。だから助けたいんだよ」

誤解もされるし、解りづらいところもあるけれど、本当はまっすぐで優しい人なのです。





少し長くなってしまいました。
あなたは、人生を後悔してないよね、本当に「やるべきことを純粋にやってきた」人生だったと、そう思います。






あなたの選んだ放送という仕事は本当に素晴らしい仕事だと思います。かいた汗、流した涙が
遠い遠い会ったこともない人の、胸のウチで花が咲き、人生を変え、世の中を幸せにできるのですから。



直接の後輩だけでなく「作品」を通じて、あなたが大好きだったテレビの仕事を志し、「思い」を継いでくれる人が大勢います。

その声が聞こえますか?


17才で入ったこの世界、もう40年にもなるのですね。
「夢で逢えたら」からも30年がたちました。今年27時間テレビも変わりました。

本当におつかれさまでした。


そして、一つ嬉しいことがあります。
なかなか家庭をもたなかったあなたが結婚され、
実に素直に自分を出して甘えていらっしゃる様子は、
仕事をストイックにやってきたあなたを知っている者として、本当にうれしく思います。
よかったね。



ああ、お別れの時が近づいて来ました。
最後にお会いした時「悪いね、こんな状態になっちゃってね」と笑い、
別れる時、「また会おう」と握手したその大きな手は、
スタジオアルタの3カメ脇でテレフォンショッキングのCMあけ、
タモリさんにキューを出していた、あの手のままでした。




あなたに出会えて本当に良かった。
もう一度「夢で逢えたら」いいね。


さよなら、また会おう。

 
平成29年12月8日 吉田正樹


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