星野淳一郎さんの葬儀で弔辞読みました。
どんな友達も僕より相応しい人がいるからと
お断りすることが多いのだけれど
この度は、引き受けました。
難しかった。
でも言えてよかった。

組織に属さなかった星野さんの仕事を少しでも
彼の作品を観て育った遠くの皆さんに知ってもらいたい。
そんな思いから奥様に了解を得てTwitterでつぶやき、facebookでお知らせしました。

そんな中に作家の皆さんが僕の弔辞も紹介してくださり全文を読みたいという希望が寄せられました。

改めて星野淳一郎さんのご冥福を祈って
ここに掲載します。







星野淳一郎さん、

僕達のあいだで、弔辞なんて柄でもないけど、
最後のお別れだから、少しだけ送る言葉を述べようと思います。


長い長いつきあいになりましたね。
とても一言では表現できない関係でした。
僕にとっては先生であり、仲間であり、ライバルでもあり、そして真の友達でした。

 

1980年代に初めて会った時、横澤さんから「ここのことは全部ホシノに聞いて」と言われました。
笑っちゃうようですけれど、あなたはその言葉通りの人物でした。

まさに横澤班の要。

15才でテレビを志し、17才でこの世界に飛び込んだあなたはすでに大ベテランでしたから、教えてもらうことばかりでした。
とにかくいろんな意味で大きな人でした。

毎日の笑っていいいとも!スタジオアルタの下手に仁王立ちして、どんなことがあってもこの場は俺が支えるというまさに無双の存在でした。


几帳面で豪胆、最悪の事態を悲観論で準備して、本番は何があっても「しゃーねーや」と最高の楽観論で楽しんでゆく。

タモリさんとの信頼、そして当時の最高の出演者のなかでうまれた、フジテレビらしい幸せな空気でした。


そしてその結晶ともいえるのが、第一回目の24時間テレビでした。あなたは制作のすべてを実務として統括するスーパープロデューサーとして、30年にも及ぶその基礎をこしらえました。

「どうせ誰かがやらなくちゃいけないなら、オレたちがやらないで誰がやる」よく言ってました。





西郷隆盛は私利私欲で動く人が多いなか、「私」という部分を2%だけ圧縮してそこに出来た真空のような「無私」で多くの人を引きつけていったと言います。

あなたの「無私」は2%どころではありませんでした。

100%そうでした。

思い出される光景は、根元まで吸ったたばこ、それが山盛になってゆく灰皿。

自らに課した使命感はとことんテレビが好きで、純粋に「やり抜く」、それがあなたの生き方でした。


僕達が2人でつくった最初の番組が「夢で逢えたら」でした。

これもまた己の欲望の為でなく、
先輩から受け継いだものをどうやって未来に渡せるか、
まさに「俺達がやらないで、誰がやる」というものでした。



あの頃は本当に楽しかった。


今日の入り口で流れている曲は、みんなあなたが作詞したものです。覚えていますか?


その後、誰かがやらねばや、ごっつええ感じの時代を経て、あなたは日本テレビで仕事をします。

少し距離ができました。




再び会うことができたのは、古い友人であるエディターの石附君の新潟での結婚式でした。


上越新幹線のホームの端に立つあなたの姿はまるで風に向かう
イオンの様でした。

そして、どうしてもとお願いして「笑う犬の生活」に参加してもらいました。
 
それから一緒の生活です。「力の限りゴーゴゴー」などすべての番組を共にしました。


今は分かってもらえなくても、いつか自分達の方向がきっと伝わる筈だ、そう思って一緒に進んできました。


その頃、ニューヨークで過ごしたある晩、言ってくれたひとことがあります。

「お前はどう思っているかわからないが、俺は君のこと友達だと思ってるよ。だから助けたいんだよ」

誤解もされるし、解りづらいところもあるけれど、本当はまっすぐで優しい人なのです。





少し長くなってしまいました。
あなたは、人生を後悔してないよね、本当に「やるべきことを純粋にやってきた」人生だったと、そう思います。






あなたの選んだ放送という仕事は本当に素晴らしい仕事だと思います。かいた汗、流した涙が
遠い遠い会ったこともない人の、胸のウチで花が咲き、人生を変え、世の中を幸せにできるのですから。



直接の後輩だけでなく「作品」を通じて、あなたが大好きだったテレビの仕事を志し、「思い」を継いでくれる人が大勢います。

その声が聞こえますか?


17才で入ったこの世界、もう40年にもなるのですね。
「夢で逢えたら」からも30年がたちました。今年27時間テレビも変わりました。

本当におつかれさまでした。


そして、一つ嬉しいことがあります。
なかなか家庭をもたなかったあなたが結婚され、
実に素直に自分を出して甘えていらっしゃる様子は、
仕事をストイックにやってきたあなたを知っている者として、本当にうれしく思います。
よかったね。



ああ、お別れの時が近づいて来ました。
最後にお会いした時「悪いね、こんな状態になっちゃってね」と笑い、
別れる時、「また会おう」と握手したその大きな手は、
スタジオアルタの3カメ脇でテレフォンショッキングのCMあけ、
タモリさんにキューを出していた、あの手のままでした。




あなたに出会えて本当に良かった。
もう一度「夢で逢えたら」いいね。


さよなら、また会おう。

 
平成29年12月8日 吉田正樹


M -1について

twitterにふと投稿した感想を備忘録として上げておきます。Twitterでの投稿を時系列で並べてみたものです。一部字数の問題で読み辛い所もあるかもしれません。

島田紳助さんがM−1を提唱した精神は、一番面白い漫才師を選ぼうと言うことであったと記憶する。
何しろ最初に番組化をオファーされ、当時のフジテレビとして検討した立場だからそんなに誤解は無いと思う。

だからチャンピオンは面白い「漫才師」なのであって、お笑いニュースターになれるかはこれからの話。

この件は後述する。

実際のところやはり、この大会は実力者が出場し、競い合っただけあってやはり小気味好い面白さだった。
お笑いのリズム感やテクニック、運動神経みたいなものは大阪文化が生んだ芸術だと思う。

テレビスターには他の方法でもなれるし、むしろそれを目指してないからこそ漫才道に精進できるのでは無いか?
コンテストは多くあるがことM−1の関してはその精神が大事だと思う。
第一回優勝の中川家なんかはそういう思いで選ばれたような気がする。
大阪では(初回は)20%を超えたが東京では10%に達しなかった

漫才にはいろんな価値観や新しい表現方法。独自の世界観みたいなものを盛り込む可能性もあるが、
当面求められているのは、王道の運動神経やリズム感だろう。
この辺は予選や決勝の価値観のすり合わせを今一度する必要がある。

漫才自体の形を逸脱するような、例えばキングオブコントなら許される表現方法の変更のようなものも、漫才師コンテストだと思えばむしろマイナスに働いていることに出場者は気づく必要がある。
しかしそれはテレビというメディアが求めている価値の革命とは少し違うのだだから笑いに世界観や革命を持ち込もうといているならこのコンテストには出ても仕方がない。

もっともその両方ができたのがダウンタウンだったが。
そこに気がついていたのも紳助さんだったような気がする。

紳竜がもう漫才を止めようと思ったダウンタウンの漫才を超える革命的な漫才が見たいと思うのは僕の我が儘だろうか。
若者のチャレンジは制度や分野という区切りを超越することがあるのではないか。

今東西で、高視聴率を取れる一大コンテストとなったからこそ、開始時の価値観とニュースター発掘の整合性や、テレビがもつ拡張性をうまく利用してゆくことが大切ではないかと思う。昔千鳥が出始めの頃ファンだったし(僕が)テレビマンの頃は一押しだったこともあったがそれは彼らの中に逸脱を感じたからだ。

平成も終わろうとしている今.
新しい漫才師たちは、革命家であってほしいと思う。
笑いの概念ごとぶち壊してほしいくらいだ。その意味で、貧乏な芸人の悩みの話は又吉で終わりにしてくれ、お腹いっぱいだからと冗談を言ったことを思いだした。

こう、書いていて自分はテレビマンなんだな、と改めて思う。
面白い人も好きだがそれ以上に輝く人が好きなのだ。
一言で言えば時代はスターを求めているので、いつもテレビはそれを探しているのだろう。

記憶を辿れば、第一回目が企画された頃は、ドキュメントバラエティーが天下を取り、それにコント勢が竹槍で一矢報いるべく、
笑いのムーブメントを開始した頃で、
その意味で漫才という文化もまたマイノリティーから細々と挑戦して行ったのだ。

そこには吉本興業の矜持があり伝統に対する責任感があった。

この続きはまた改めて書く。

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